2022年12月24日 22:39
12月24日11:00発、地下鉄東西線。電車は今のところ目立ったトラブルもなく、平常通り運行していた。
山田力弥は12月24日11:00発東西線上り電車の2両目に乗車していた。吊革につかまった彼はいつも通り、ある男を思い出して怒りを募らせ、拳を握ったり開いたりしていた。
西園寺翼。あの野郎、もし見かけたら絶対殴ってやる。
殴ってやらなければ気が済まないと思っていたし、自分には殴る資格があると思っていた。山田力弥には二つ下の妹がいた。歳が近いわりに仲のよい兄妹で、力弥は妹をとても可愛がっていた。誕生日には必ず事前にさりげなくリサーチしたプレゼントを贈っていたし、勉強も教えたし、ディズニーランドにも連れていったし、よく一緒に原宿や渋谷に行き、あれこれ買ってやった。妹も兄によく懐いていたし、力弥は妹が可愛くて仕方がなく、妹から「私、結婚しないでお兄ちゃんと一緒に暮らす」と告白される妄想をしていた。
ゆえに山田力弥は西園寺翼を憎悪していた。西園寺翼は妹が初めてバイトした喫茶店の先輩バイトだったが、妹は力弥からすれば一体どこがいいのか分からないこの男のことを好きになってしまったのだ。妹は昨年の今日、勇気を出して西園寺に告白し、断られ、そのショックと気まずさからバイトを辞めてしまった。山田力弥は西園寺翼が許せなかった。あんなに可愛がっていた自分を押しのけて妹の心を奪ったのはバイト先の先輩という立場を利用しての演出で騙していたからに違いなかったし、そうまでして妹を惚れさせておいて振ったということは、純真な妹を振り回して遊んでいたという証拠である。
だから山田力弥はまだ覚えている。一年前の今日、泣きながら帰ってきて部屋に閉じこもってしまった妹の背中を覚えている。西園寺翼。殴る。もし見かけたら絶対に殴る。
バイト先に行ってみたこともあったが、西園寺もほどなくして辞めてしまっており、バイト以外では妹と接点もないため行方が分からなかった。だがどこかにいるはずだった。行動範囲がかぶっているなら、どこかで必ず西園寺を見かける日が来るはずだった。山田力弥は人混みに出ると周囲を見回して西園寺を捜す癖がついていた。もちろん電車に乗っている今も、車両内のどこかにいないかと見回している。
西園寺翼。乗っていないだろうか。もし乗っていたら。見つけたら絶対殴ってやる。その場で即殴って、土下座して謝らせてやる。
西園寺翼は12月24日11:00発東西線上り電車の2両目に乗車していた。ドアに寄りかかっている彼はいつも通り、ほのかな期待と不安を抱いてある女性の姿を捜していた。
乾美紀さん、というらしい。あの人。最近見なくなってしまった。今日は乗っていないだろうか。
西園寺翼は面食いの傾向があり、また多分に恋愛体質でストーカー気質のところがあった。彼は人生の折々で様々な女性に憧れた。小学三年生の頃、産休に入った担任の代理で臨時に赴任した先生を好きになった。六年生の頃、ゲームセンターで見かけた別の学校の女の子を好きになった。中学二年生になって行き始めた美容院の、一番若い美容師さんを好きになった。彼の好みは非常に分かりやすく、いずれも「好みの差はあれど、誰もが頷く程度」の美人ばかりだった。西園寺翼は恋愛を始めると視野が狭くなり、前のめりになった。小学校の先生には早々に告白し、笑顔で断られても毎日くっついて数日に一日、告白を繰り返した結果、どこにどう伝わったのか、親から「先生も迷惑しているでしょう」と叱られる羽目になって恥ずかしい思いをした。六年生の頃好きになった女の子の姿を見るためゲームセンターに通い続け、毎日暗くなるまで居座り続け、店内をきょろきょろしながら徘徊するにもかかわらず100円たりとも使わないので、とうとう店員に顔を覚えられ、親に連絡がいった。中学の頃、美容院に行く間隔が一ヶ月から二週間に、二週間から一週間になり、その頃には店側も事情を察しており、翼の担当には店長が出てくるようになった。
高校、大学と幾人もの女性にそうやって恋い焦がれてきた西園寺翼の現在の恋愛対象は東西線の車内で見かけた「乾美紀さん」になった。まったく接点がなく、ただ同じ電車に乗っていただけの相手の名前をなぜ知っているかというと、背後から彼女の携帯を覗き込み、SNSでのやりとりを見ていたからである。
だが今回ばかりは、西園寺翼を躊躇わせる事情があった。乾美紀さんは左手の薬指に結婚指輪をしていたのだ。これは彼の恋愛にとって初めての事態だった。既婚者。もう誰かのものなのだ。常識的に考えれば無理だ。不倫になってしまう。いや、自分の気持ちは本物だ。なんとか夫を捨てさせて、こちらに来てくれるよう仕向けられないか。
西園寺翼は車両内を見回している。乾美紀さん。乗っていないだろうか。もし乗っていたら。見つけたら絶対に声をかけて、デートに誘う。連絡先を訊く。その後どうなるかは知らない。絶対誘う。
乾美紀は12月24日11:00発東西線上り電車の2両目に乗車していた。正確には二両目と三両目の連結部に立って二両目の車両を睥睨していた。彼女は最後尾から乗り、連結部を経由してここまで進んできていた。彼女は大きめのスポーツバッグを持っており、中には自作の酸化銅テルミット爆弾が入っていた。
内村悠佳。絶対殺す。こいつで吹っ飛ばしてやる。周囲に他の乗客がいるが構わない。これを爆発させたら車両がどうなるかも分からない。だがどうせ私も死ぬのだ。まとめて吹っ飛ばしてやる。思い知らせてやる。
乾美紀は内村悠佳に殺意を抱いていた。乾美紀は現在無職であり、夫とも別居中だった。貯金は少なく、不眠に悩まされていた。彼女からすれば、原因はすべて内村悠佳にあった。乾美紀はある一流企業に勤め、同期で一番の出世頭と目されていた。部内で初の女性SC(課長)になるはずだった。だが中途入社の内村悠佳が現れると、乾美紀に向けられていた評価がまるごと内村悠佳に移った。美紀は愕然とした。どうみても不当だった。内村悠佳は確かに要領がよく、仕事もそつなくこなすが、リーダーシップや独創性は美紀に比べるべくもなかったし、学歴も下だったし、どうでもいいことだが不細工だった。だが狡猾だったのかもしれなかった。まともに勝負すれば美紀に到底敵わないことを知って、社内で悪い噂を流したりしたのだろう。人付き合いだけはまめで、不細工なくせにおっさん役員に愛想をふりまき、ついでにいつもスカートだ。そういうやり方をしたに決まっていた。そして所詮、日本の会社はセクハラじじいが支配する性差別社会だ。仕事ができるがはっきりものを言って近寄りがたい自分より、適度に隙があり、お愛想を振りまき、なんならセクハラも「受け入れてくれ」そうな内村の方がじじいどもの覚えがいいに決まっている。
乾美紀は日本の会社組織に染みついた性差別とセクハラ体質、何より能力より「お気に入りの子」かどうかで従業員を評価する非合理性に絶望し、さっさと退職した。次はもっとまともな会社にしようと思って就職口を探したが、美紀が自分の希望を述べるとどこの会社も彼女を切った。乾美紀は絶望して酒を飲むようになり、夫にもきつく当たらざるを得なくなり、貯金が100万を切る頃、夫は行き先を告げずに出ていった。勤め先に行ったら非常識だと騒がれて出入り禁止になり、危うく警察沙汰にされるところだった。すべてあの女の、内村悠佳のせいだった。仕事もない。貯金もそろそろなくなる。夫にも逃げられた。失うものはない。だがただ死ぬのは嫌だった。自分がこんなに苦しんで死ぬのに、内村悠佳がそのことをまったく知らずに幸せな人生を続けると思うと吐き気がした。
思い知らせてやなければならなかった。だが内村悠佳はどこかよそに異動になったらしく、会社の周囲で張り込んでも全く現れなくなった。
絶対見つけてやる。
乾美紀は内村悠佳を捜し始めた。幸い相手はSNSをやっていたため、どこに住んでいるのかのヒントは掴めそうだった。内村は自分のことをほとんど書かず、断片的な情報しかなかったが、美紀はそれを頼りに候補地を次々潰していった。だが内村はどこにもいなかった。日本中を潰したのにどこにもいなかった。残るはここだけであり、憎き内村はもうすぐ見つかるだった。
絶望する乾美紀に福音がもたらされた。内村のSNSに新たな記述が現れたのだ。しかもいきなり重要な情報が入った。地下鉄東西線。しかも11:00頃に乗ることがあるらしい。
やはり近くにいたのだ。灯台もと暗し。乾美紀はテルミット爆弾を携え、連結部から二両目を窺っている。乗っているはずだ。もし乗っていたら。見つけたら近付いて、これで吹っ飛ばす。車両ごと。私を不当に切り捨てた社会ごと吹っ飛ばす。
内村悠佳は12月24日11:00発東西線上り電車の2両目に乗車していた。彼女は座席でスマートフォンを見ていたが、時折なんとなく顔を上げて周囲を窺った。この時間の電車なら、あのおばあちゃんがいるかもしれない、と思ったのだ。親切なあのおばあちゃん。今日は乗っていないだろうか。
内村悠佳は1ヶ月ほど前、この電車内でスマートフォンを落としていた。そのことに気付かず危うくそのまま下車しそうになったところで、白いワンピースを着た上品なおばあちゃんが声をかけてくれたのだ。彼女はスマートフォンを拾ってくれるだけでなく、悠佳の鞄の下部が開いていることも教えてくれた。だが急いでいた悠佳は「あ、すみません」と言って小さく会釈しただけで、そのまま下車してしまった。
すみません、ではなく、ありがとう、と言わなければならなかった。内村悠佳はそのことがずっと気になっている。こちらはあの時、スマートフォンをなくしていたらとてもまずいことになっていただろう。助けてもらったのに。あのおばあちゃんは気を悪くしたのではないだろうか。そんな人には見えなかったが、礼一つないのか、と失望させたかもしれない。私が迷惑そうにしていた、と勘違いしていたらどうしよう。そのことがきっかけで、彼女が他人に親切にするのはもうやめよう、と考えてしまったらどうしよう。
まさかそこまではない、と思いつつも、内村悠佳は気にしている。そして彼女をまた見たらあらためてちゃんと礼を言えるよう、この時間の電車に乗ると周囲を見回す癖がついている。あのおばあちゃんは乗っていないだろうか。もし乗ってたいたらすぐ声をかけて、あの時のお礼をちゃんと言う。
12月24日11:00発、東西線上り電車の2両目。
山田力弥は拳を握って車両内を見回していた。
西園寺翼はそわそわしながら左右を見ていた。
乾美紀は殺意に燃えて連結部分から中を窺っていた。
内村悠佳は座ったまま周囲を確認していた。
12月24日11:00発、地下鉄東西線上り。各電車は目立ったトラブルもなく、すべて平常通り運行した。
山田力弥の乗る東京メトロ東西線上りは、平常通り終点の中野駅に到着した。
西園寺翼の乗る京都市営地下鉄東西線上りは、平常通り終点の太秦天神川駅に到着した。
乾美紀の乗る札幌市営地下鉄東西線上りは、平常通り終点の新さっぽろ駅に到着した。
内村悠佳の乗るMRT(シンガポール地下鉄)東西線上りは、平常通り終点のJoo Koon駅に到着した。
西園寺翼が地元である京都に帰っていることを知らなかった山田力弥は今日も彼を見つけられなかったことに落胆したが、彼の携帯に妹からのメッセージが入った。「彼氏ができました!」と、はにかんで男性と並ぶ妹の画像が表示された。
山田力弥はため息をつき、もうやめよう、と思った。妹は新しい恋が実り、幸せなのだ。今更西園寺をどうにかしても、彼女が知れば困るだけだろう。
乾美紀が仕事を辞め、復讐相手を捜して全国を旅していることを知らなかった西園寺翼は今日も彼女を見つけられなかったことに落胆したが、同時に安堵していた。もういいだろう。やめなければならない。相手は既婚者だ。自分の恋愛体質にももう懲り懲りだった。夢中になって追いかけて、恥しかかいていない。
彼が携帯を見ると、いつも見ているサイトに出ているゲームの広告が気になった。そこで彼に向かって元気に微笑んでいる獣耳の美少女が、なぜかたまらなく可愛らしく見えた。西園寺は広告バナーをタップし、40秒後、胸の高鳴りを抑えながらそのゲームをインストールしていた。
内村悠佳がシンガポール支社に異動になっていることを知らなかった乾美紀は札幌の本社近くに相手の姿がないことを不思議がっていたが、改めて確認した内村のSNSに「シンガポール」の文字を見つけて脱力し、床にへたりこんだ。海外にいたのだ。自分はいったい何をやっていたのだろうか。
周囲の視線を気にしてすぐに立ち上がった乾美紀の腹が盛大に鳴った。お腹がすいている。だがあまりお金がない。私は何をやっているのだろうか。仕事も探さずに。
バッグの中身が急に恐ろしくなった。乾美紀は譲ってもらった座席に座り、膝の上のバッグを隠すように抱えながら、とりあえず携帯を出して求人サイトをタップした。
内村悠佳は立ち上がった。彼女は見つけていた。まさに、あの時のおばあちゃんだ。彼女は躊躇わずに近付き、笑顔で声をかけ、自己紹介をした。「Thanks for the other day.You've been great help to me!」
お辞儀をして下車した彼女の携帯が震えた。日本にいる恋人からメッセージが来ていた。
Merry Christmas!
山田力弥は12月24日11:00発東西線上り電車の2両目に乗車していた。吊革につかまった彼はいつも通り、ある男を思い出して怒りを募らせ、拳を握ったり開いたりしていた。
西園寺翼。あの野郎、もし見かけたら絶対殴ってやる。
殴ってやらなければ気が済まないと思っていたし、自分には殴る資格があると思っていた。山田力弥には二つ下の妹がいた。歳が近いわりに仲のよい兄妹で、力弥は妹をとても可愛がっていた。誕生日には必ず事前にさりげなくリサーチしたプレゼントを贈っていたし、勉強も教えたし、ディズニーランドにも連れていったし、よく一緒に原宿や渋谷に行き、あれこれ買ってやった。妹も兄によく懐いていたし、力弥は妹が可愛くて仕方がなく、妹から「私、結婚しないでお兄ちゃんと一緒に暮らす」と告白される妄想をしていた。
ゆえに山田力弥は西園寺翼を憎悪していた。西園寺翼は妹が初めてバイトした喫茶店の先輩バイトだったが、妹は力弥からすれば一体どこがいいのか分からないこの男のことを好きになってしまったのだ。妹は昨年の今日、勇気を出して西園寺に告白し、断られ、そのショックと気まずさからバイトを辞めてしまった。山田力弥は西園寺翼が許せなかった。あんなに可愛がっていた自分を押しのけて妹の心を奪ったのはバイト先の先輩という立場を利用しての演出で騙していたからに違いなかったし、そうまでして妹を惚れさせておいて振ったということは、純真な妹を振り回して遊んでいたという証拠である。
だから山田力弥はまだ覚えている。一年前の今日、泣きながら帰ってきて部屋に閉じこもってしまった妹の背中を覚えている。西園寺翼。殴る。もし見かけたら絶対に殴る。
バイト先に行ってみたこともあったが、西園寺もほどなくして辞めてしまっており、バイト以外では妹と接点もないため行方が分からなかった。だがどこかにいるはずだった。行動範囲がかぶっているなら、どこかで必ず西園寺を見かける日が来るはずだった。山田力弥は人混みに出ると周囲を見回して西園寺を捜す癖がついていた。もちろん電車に乗っている今も、車両内のどこかにいないかと見回している。
西園寺翼。乗っていないだろうか。もし乗っていたら。見つけたら絶対殴ってやる。その場で即殴って、土下座して謝らせてやる。
西園寺翼は12月24日11:00発東西線上り電車の2両目に乗車していた。ドアに寄りかかっている彼はいつも通り、ほのかな期待と不安を抱いてある女性の姿を捜していた。
乾美紀さん、というらしい。あの人。最近見なくなってしまった。今日は乗っていないだろうか。
西園寺翼は面食いの傾向があり、また多分に恋愛体質でストーカー気質のところがあった。彼は人生の折々で様々な女性に憧れた。小学三年生の頃、産休に入った担任の代理で臨時に赴任した先生を好きになった。六年生の頃、ゲームセンターで見かけた別の学校の女の子を好きになった。中学二年生になって行き始めた美容院の、一番若い美容師さんを好きになった。彼の好みは非常に分かりやすく、いずれも「好みの差はあれど、誰もが頷く程度」の美人ばかりだった。西園寺翼は恋愛を始めると視野が狭くなり、前のめりになった。小学校の先生には早々に告白し、笑顔で断られても毎日くっついて数日に一日、告白を繰り返した結果、どこにどう伝わったのか、親から「先生も迷惑しているでしょう」と叱られる羽目になって恥ずかしい思いをした。六年生の頃好きになった女の子の姿を見るためゲームセンターに通い続け、毎日暗くなるまで居座り続け、店内をきょろきょろしながら徘徊するにもかかわらず100円たりとも使わないので、とうとう店員に顔を覚えられ、親に連絡がいった。中学の頃、美容院に行く間隔が一ヶ月から二週間に、二週間から一週間になり、その頃には店側も事情を察しており、翼の担当には店長が出てくるようになった。
高校、大学と幾人もの女性にそうやって恋い焦がれてきた西園寺翼の現在の恋愛対象は東西線の車内で見かけた「乾美紀さん」になった。まったく接点がなく、ただ同じ電車に乗っていただけの相手の名前をなぜ知っているかというと、背後から彼女の携帯を覗き込み、SNSでのやりとりを見ていたからである。
だが今回ばかりは、西園寺翼を躊躇わせる事情があった。乾美紀さんは左手の薬指に結婚指輪をしていたのだ。これは彼の恋愛にとって初めての事態だった。既婚者。もう誰かのものなのだ。常識的に考えれば無理だ。不倫になってしまう。いや、自分の気持ちは本物だ。なんとか夫を捨てさせて、こちらに来てくれるよう仕向けられないか。
西園寺翼は車両内を見回している。乾美紀さん。乗っていないだろうか。もし乗っていたら。見つけたら絶対に声をかけて、デートに誘う。連絡先を訊く。その後どうなるかは知らない。絶対誘う。
乾美紀は12月24日11:00発東西線上り電車の2両目に乗車していた。正確には二両目と三両目の連結部に立って二両目の車両を睥睨していた。彼女は最後尾から乗り、連結部を経由してここまで進んできていた。彼女は大きめのスポーツバッグを持っており、中には自作の酸化銅テルミット爆弾が入っていた。
内村悠佳。絶対殺す。こいつで吹っ飛ばしてやる。周囲に他の乗客がいるが構わない。これを爆発させたら車両がどうなるかも分からない。だがどうせ私も死ぬのだ。まとめて吹っ飛ばしてやる。思い知らせてやる。
乾美紀は内村悠佳に殺意を抱いていた。乾美紀は現在無職であり、夫とも別居中だった。貯金は少なく、不眠に悩まされていた。彼女からすれば、原因はすべて内村悠佳にあった。乾美紀はある一流企業に勤め、同期で一番の出世頭と目されていた。部内で初の女性SC(課長)になるはずだった。だが中途入社の内村悠佳が現れると、乾美紀に向けられていた評価がまるごと内村悠佳に移った。美紀は愕然とした。どうみても不当だった。内村悠佳は確かに要領がよく、仕事もそつなくこなすが、リーダーシップや独創性は美紀に比べるべくもなかったし、学歴も下だったし、どうでもいいことだが不細工だった。だが狡猾だったのかもしれなかった。まともに勝負すれば美紀に到底敵わないことを知って、社内で悪い噂を流したりしたのだろう。人付き合いだけはまめで、不細工なくせにおっさん役員に愛想をふりまき、ついでにいつもスカートだ。そういうやり方をしたに決まっていた。そして所詮、日本の会社はセクハラじじいが支配する性差別社会だ。仕事ができるがはっきりものを言って近寄りがたい自分より、適度に隙があり、お愛想を振りまき、なんならセクハラも「受け入れてくれ」そうな内村の方がじじいどもの覚えがいいに決まっている。
乾美紀は日本の会社組織に染みついた性差別とセクハラ体質、何より能力より「お気に入りの子」かどうかで従業員を評価する非合理性に絶望し、さっさと退職した。次はもっとまともな会社にしようと思って就職口を探したが、美紀が自分の希望を述べるとどこの会社も彼女を切った。乾美紀は絶望して酒を飲むようになり、夫にもきつく当たらざるを得なくなり、貯金が100万を切る頃、夫は行き先を告げずに出ていった。勤め先に行ったら非常識だと騒がれて出入り禁止になり、危うく警察沙汰にされるところだった。すべてあの女の、内村悠佳のせいだった。仕事もない。貯金もそろそろなくなる。夫にも逃げられた。失うものはない。だがただ死ぬのは嫌だった。自分がこんなに苦しんで死ぬのに、内村悠佳がそのことをまったく知らずに幸せな人生を続けると思うと吐き気がした。
思い知らせてやなければならなかった。だが内村悠佳はどこかよそに異動になったらしく、会社の周囲で張り込んでも全く現れなくなった。
絶対見つけてやる。
乾美紀は内村悠佳を捜し始めた。幸い相手はSNSをやっていたため、どこに住んでいるのかのヒントは掴めそうだった。内村は自分のことをほとんど書かず、断片的な情報しかなかったが、美紀はそれを頼りに候補地を次々潰していった。だが内村はどこにもいなかった。日本中を潰したのにどこにもいなかった。残るはここだけであり、憎き内村はもうすぐ見つかるだった。
絶望する乾美紀に福音がもたらされた。内村のSNSに新たな記述が現れたのだ。しかもいきなり重要な情報が入った。地下鉄東西線。しかも11:00頃に乗ることがあるらしい。
やはり近くにいたのだ。灯台もと暗し。乾美紀はテルミット爆弾を携え、連結部から二両目を窺っている。乗っているはずだ。もし乗っていたら。見つけたら近付いて、これで吹っ飛ばす。車両ごと。私を不当に切り捨てた社会ごと吹っ飛ばす。
内村悠佳は12月24日11:00発東西線上り電車の2両目に乗車していた。彼女は座席でスマートフォンを見ていたが、時折なんとなく顔を上げて周囲を窺った。この時間の電車なら、あのおばあちゃんがいるかもしれない、と思ったのだ。親切なあのおばあちゃん。今日は乗っていないだろうか。
内村悠佳は1ヶ月ほど前、この電車内でスマートフォンを落としていた。そのことに気付かず危うくそのまま下車しそうになったところで、白いワンピースを着た上品なおばあちゃんが声をかけてくれたのだ。彼女はスマートフォンを拾ってくれるだけでなく、悠佳の鞄の下部が開いていることも教えてくれた。だが急いでいた悠佳は「あ、すみません」と言って小さく会釈しただけで、そのまま下車してしまった。
すみません、ではなく、ありがとう、と言わなければならなかった。内村悠佳はそのことがずっと気になっている。こちらはあの時、スマートフォンをなくしていたらとてもまずいことになっていただろう。助けてもらったのに。あのおばあちゃんは気を悪くしたのではないだろうか。そんな人には見えなかったが、礼一つないのか、と失望させたかもしれない。私が迷惑そうにしていた、と勘違いしていたらどうしよう。そのことがきっかけで、彼女が他人に親切にするのはもうやめよう、と考えてしまったらどうしよう。
まさかそこまではない、と思いつつも、内村悠佳は気にしている。そして彼女をまた見たらあらためてちゃんと礼を言えるよう、この時間の電車に乗ると周囲を見回す癖がついている。あのおばあちゃんは乗っていないだろうか。もし乗ってたいたらすぐ声をかけて、あの時のお礼をちゃんと言う。
12月24日11:00発、東西線上り電車の2両目。
山田力弥は拳を握って車両内を見回していた。
西園寺翼はそわそわしながら左右を見ていた。
乾美紀は殺意に燃えて連結部分から中を窺っていた。
内村悠佳は座ったまま周囲を確認していた。
12月24日11:00発、地下鉄東西線上り。各電車は目立ったトラブルもなく、すべて平常通り運行した。
山田力弥の乗る東京メトロ東西線上りは、平常通り終点の中野駅に到着した。
西園寺翼の乗る京都市営地下鉄東西線上りは、平常通り終点の太秦天神川駅に到着した。
乾美紀の乗る札幌市営地下鉄東西線上りは、平常通り終点の新さっぽろ駅に到着した。
内村悠佳の乗るMRT(シンガポール地下鉄)東西線上りは、平常通り終点のJoo Koon駅に到着した。
西園寺翼が地元である京都に帰っていることを知らなかった山田力弥は今日も彼を見つけられなかったことに落胆したが、彼の携帯に妹からのメッセージが入った。「彼氏ができました!」と、はにかんで男性と並ぶ妹の画像が表示された。
山田力弥はため息をつき、もうやめよう、と思った。妹は新しい恋が実り、幸せなのだ。今更西園寺をどうにかしても、彼女が知れば困るだけだろう。
乾美紀が仕事を辞め、復讐相手を捜して全国を旅していることを知らなかった西園寺翼は今日も彼女を見つけられなかったことに落胆したが、同時に安堵していた。もういいだろう。やめなければならない。相手は既婚者だ。自分の恋愛体質にももう懲り懲りだった。夢中になって追いかけて、恥しかかいていない。
彼が携帯を見ると、いつも見ているサイトに出ているゲームの広告が気になった。そこで彼に向かって元気に微笑んでいる獣耳の美少女が、なぜかたまらなく可愛らしく見えた。西園寺は広告バナーをタップし、40秒後、胸の高鳴りを抑えながらそのゲームをインストールしていた。
内村悠佳がシンガポール支社に異動になっていることを知らなかった乾美紀は札幌の本社近くに相手の姿がないことを不思議がっていたが、改めて確認した内村のSNSに「シンガポール」の文字を見つけて脱力し、床にへたりこんだ。海外にいたのだ。自分はいったい何をやっていたのだろうか。
周囲の視線を気にしてすぐに立ち上がった乾美紀の腹が盛大に鳴った。お腹がすいている。だがあまりお金がない。私は何をやっているのだろうか。仕事も探さずに。
バッグの中身が急に恐ろしくなった。乾美紀は譲ってもらった座席に座り、膝の上のバッグを隠すように抱えながら、とりあえず携帯を出して求人サイトをタップした。
内村悠佳は立ち上がった。彼女は見つけていた。まさに、あの時のおばあちゃんだ。彼女は躊躇わずに近付き、笑顔で声をかけ、自己紹介をした。「Thanks for the other day.You've been great help to me!」
お辞儀をして下車した彼女の携帯が震えた。日本にいる恋人からメッセージが来ていた。
Merry Christmas!
スポンサーサイト