フェイスイーターの理由

2014年12月24日 22:05

その巨大な生き物は、岩陰から突然現れた。

最初は何なのか分からなかった。

地響きのようなくぐもった音がして、空気がかすかに震え、

岩の陰からもう一つ、動く岩が現れた。そのように見えた。

だがその岩は、私を見た。

当時の私は、奥多摩のこんな山に野生のタタラ科動物がいるなんて考えてもいなかった。

だから私は突っ立ったまま、驚愕で動けなかった。

タタラの巨大な口が、唾液の糸を伸ばしながら大きく開けられた。

一つ一つが石臼ぐらいありそうな巨大な歯が並んでいた。

私は握力をなくし、手にしていた水筒を取り落とした。

がこん、という音が河原に響いた。

 

はい画面を見てください。大きいですねー。

動物園などでみなさん御存じですね。日本原産、陸上動物としては最大級の、

タタラ目タタラ科tatara amplissimus laponicusです。

実物を見ると、おっきな岩がそのままズズズッと動いてるように見えます。

歳をとるごとに体が大きくなり、体高は最大6メートル、体長は12メートルに達します。

手は意外と器用なんですが、食事の時は大抵この大きな口で、そのまま丸かじりします。

そのため昔は大変恐れられており、

明治時代に日本に来たイギリス人がつけた英名は「フェイスイーター」。

ある意味、これは彼らの性質をとてもよく表しているわけですけど。

 

震えていただけの脚がやっと動いた。

ザックをすでに背負っていたのは幸いだった。私はタタラに背を向け、走り出した。

不安定な石がごろごろしていて足元が危ない。

転びそうになり、一度二度、地面に手をついた。足首にぴしりという痛みを覚えた。

地響きのような音が背後から追ってきた。

腕を振り、腿を上げ、私は走った。走るしかなかった。それ以上の思考ができなかった。

だが巨大で鈍重そうに見えたタタラは、理不尽なほどのスピードで追いかけてきた。

後ろを振り返る。

あんなに早く走ったつもりなのに少しも距離ができていないことを知り、私は絶望した。

 

外見からは想像もつきませんが、タタラは本気で走ると時速30km/hくらい出ます。

人間より速いんですね。しかも脚の構造が極めて特殊で、

簡単に言うと腹足類、ナメクジみたいな感じで走るんです。

だから上り坂も悪路もなんのその。

一度追いかけられたら、逃げ切るのはまず不可能です。

 

私は逃げた。山道を這い上がり、下草に足を取られ、転げて泥だらけになりながら走った。

息が切れ、心臓が跳ね回り、恐怖と混乱で頭の中が白かった。

地響きは少しも離れずについてきた。

木立の間を抜けると、後ろで枝の折れる音がした。

裾を濡らしながら小川を越えると、後ろで派手な水音がした。

何度振り返ってもタタラは常に絶望的な距離のまま、ぴったりとついてきていた。

私は考えた。逃げるのは無理だ。隠れてやりすごさないと。

ぬかるんだ下り坂を滑り降りたところで、私は山道から外れ、岩陰に隠れた。

坂の上にいたタタラの視界からは私が消えたはずだ。

口を押さえて必死で息を殺していると、地響きがすぐ近くまでやってきた。

通り過ぎた、と思った。タタラは私を見失った。

だが、地響きがやんだ。

山道を覗くと、タタラは目をぎょろりと剥き出し、私の足跡を観察していた。

ずるずると音をたててタタラが体の向きを変え、私のいる方に向かってきた。

 

またタタラ科は総じて知能が高く、人間との意思疎通も可能です。

研究のため罠を使って捕獲しようとしたこともありましたが、

単純な罠にはまずかかりませんね。鼻は効きませんが目がよく、

人間の顔も一人一人識別しています。したがってごまかしもききません。

 

巨大な岩がこちらに向かってくる。

目はまっすぐに私を見ている。大きな口が嬉しそうに開く。

私は放心して、目の前に迫ってきた巨大なタタラを見上げていた。

もう、逃げることなど頭に浮かばなかった。

黙って喰われるだけ。噛み砕かれるのだろうか。丸呑みにされるのだろうか。

どのくらい苦しいのだろうか。

そう思った時、タタラの手がにゅっと伸びてきた。

私は気付いた。巨大なタタラの手の中に、ちょこんとした円筒形のものがある。

私の水筒だった。びっくりして河原に落としていたのだ。

タタラは私の目の前に水筒を差し出し、にやあ、と確かに笑った。

 

ただ性格は非常におとなしくて優しいです。

大型草食動物には多いんですよね、そういうの。

タタラ科の場合、主食にしているのも木の実とか木の皮ですからね。

もっとも倒木を丸ごとかじったりしてる姿はかなり大迫力ではあるんですが。

人間に対しても親切で、遭難者を山の下まで連れて行ってくれた、という事例もあります。

それとこれはまだ科学的な裏付けはないのですが、どうも彼ら、かなりの面食いらしく、

可愛い女の子には優しいんです。木の実をプレゼントされた人もいるとか。

 

差し出された水筒を受け取ると、タタラは目を細めて私を見た。

私は信じられない思いでタタラを見た。

「……これを、届けにきてくれたの……?」

タタラは確かに、私の声を聞いて、にやあ、と笑った。

 

このことは山で暮らす人たちにはわりとよく知られています。

だから、ついた和名が「メンクイタタラ」なわけです。

英名の「フェイスイーター」というのは、

誤ったイメージに基づいてこの和名が直訳されてしまった、ということです。

そういうわけで、当時の私もずいぶんびっくりさせられたんですけどね。無事でした。

……何ですかその顔は。

美人なんですよ私は。彼らの基準で言えば、ですけど。










今回はクリスマスにぜんぜん関係のない話ですが。
元になったのはtoi8先生の漫画単行本「惑星さんぽ」(ワニマガジン社)に収録されている、
「おとしもの」という話です。(あるいは〈森のくまさん〉なのかもしれませんが。)
タタラの外見イメージを具体的に見たいという方はこちらで。
動物は見かけによらないです。ゴリラなんかも、昔は凶暴な猛獣だと思われていたわけでして。

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