雪の降る猫の日のはなし

2011年12月25日 01:41

 家のちかくに三角公園とよばれている公園があって、わたしはときどき、そこにいく。

 三角公園にはなにもない。入口のわきに水飲み場があって、まんなかにすべり台があって、ひとつの隅に砂場があって、もうひとつの隅に鉄棒がふたつだけある。それだけの公園だ。のこった隅にはベンチがあって、そこにはいつも、男の子がひとり、すわっている。
 男の子、といっても、たぶん、わたしと同じくらいの年だと思う。いくつなのかは、きいたことがない。名前も知らない。ただ、三角公園には雌の黒猫が1匹すんでいて、男の子はいつもその猫といっしょにいる。だからわたしは頭のなかで、黒猫の男の子、と勝手によんでいる。

 わたしはときどき三角公園にいって、黒猫の男の子といっしょにベンチにすわる。それで、すこし話をする。男の子はすこし変わっていて、じぶんの話も、友達の話も、テレビや漫画の話もしない。いちばんよくするのは、猫の話だ。男の子は猫のことにとても詳しくて、猫がどうやって狩りをするのかとか、毛づくろいをめんどくさいと思う猫もいることとか、ニャーオ、とアーオ、の意味の違いとか、そういうことを、静かな声で話してくれる。わたしはとなりにすわって話をききながら、男の子の白くて透き通るような頬とか、器用そうな指とか、ちょっとくせのある髪が日差しをあびてきらきら輝くところとか、そういうのをときどき、見る。男の子の膝の上でまるくなっている黒猫は目を閉じて、耳をぴんとたてて、猫の話をきいている。

 男の子はひざの上の黒猫をとてもやさしく撫でる。黒猫の、とてもきれいでしなやかな背中の毛の、1本1本をいつくしむように撫でる。この黒猫はだれにもなつかなくて、ほかの人が話しかけても逃げるだけなのに、男の子のひざの上にいるときだけは、とてもしあわせそうに目をとじている。

 

  仲がいいんだね。

 

 わたしがそういうと、男の子は静かな声で、答えた。

 

  恋人なんだ。

 

 そうなんだ、というと、男の子は黒猫の背に手をそえた。黒猫がちょっと目をあけて、男の子を見上げた。

 

  僕たちは小さいころから、ずっといっしょだった。今は魔法をかけられて、こんな姿になってしまったけど、そうでなかったら、結婚するはずだった。

 

 男の子はさびしそうに目を細め、黒猫の背中をゆっくりと撫でた。男の子を見上げていた黒猫は、また首をひっこめて、目をとじた。黒猫のほうも、なんだかさびしそうだった。

 わたしは、そうなんだ。といって、つらいね、とつけくわえた。

 でもね、と、男の子がいった。もしかしたら、もうすぐ魔法がとけるかもしれない。

 わたしが男の子を見ると、男の子もわたしを見て、太陽の魔法だから、といった。太陽の魔法だから、昼がいちばん短くなる季節がくれば、とけるかもしれない。晴れていたらだめだけど、雪が降って、太陽の光をはねかえしてくれたなら、きっと。

 

  昼がいちばん短くなる季節。クリスマスのころ?

 

  うん。クリスマスのころ。

 

 男の子のこたえをきいて、わたしは空を見上げた。空はよく晴れていて、夕焼けがきれいだった。風もまだすこし、あたたかい。

 むずかしいね、とわたしはいった。このあたりは、雪、降らないよ。クリスマスのころは。

 男の子はだまってうなずいた。それから赤くなった太陽を見つめて、でも、待つしかないから、とつぶやいた。

 

  もっと北のほうなら、雪は降るけど。

 

 わたしは男の子から目をそらして、ちいさな声でつぶやいた。きこえなかったかな、と思ったが、男の子はちいさな声で、そうだね、とこたえた。そうだね。でも、僕たちはここから動けないんだ。だから、ここで待つしかない。

 わたしが横目で男の子を見ると、男の子もわたしを見ていた。わたしはゆっくり手をのばして、黒猫の背中を撫でさせてもらった。

 

  ここで待つの。

 

  うん。猫にはなわばりがあるから。かんたんによそにはいけないんだ。

 

  そうなんだ。猫もけっこう、たいへんなんだね。

 

 男の子は、しかたない、という顔をしていたけど、わたしはすこしだけほっとしていた。それが申し訳なくて、わたしは目をそらして、自分の靴を見ながらいった。

 

  雪、降るといいね。

 

  うん。

 

  今年、降るかもしれないよ。ニュースで、寒い冬になるっていってたし。

 

 男の子も前を向いたようだった。そうだね、というのがきこえた。

 それから、ひざの上の黒猫を見ながら、ありがとう、といった。

 黒猫の男の子は、やっぱりすこし変わっている。でもわたしはなぜか、男の子の話をすんなりと受けいれることができた。そのことが、とてもうれしかった。

 

 そう話した日から、わたしは前よりひんぱんに、三角公園にいくようになった。男の子はいつもいるわけではなくて、いないときは黒猫のほうもいないのだけど、いるときには、前よりすこしながく、話をするようになった。クリスマスがちかづいてきて、街にジングルベルが流れるようになると、寒い日も多くなったが、わたしはそれでも、三角公園にいった。男の子も、かわらずにベンチにすわっていた。風はつめたかった。わたしは手袋をして、マフラーをしっかり巻いて、首をすぼめながら、ベンチにすわっていた。男の子も、風が吹くと寒そうに背中をまるめて、それでも腕で囲いを作って、ひざの上の黒猫に風があたらないようにしていた。そうしているようすは本当に、恋人を大事に守っているみたいに見えた。わたしはそのとなりで白い息を吐きながら、もし雪が降ったら、と考えていた。クリスマスのあたりは天気が荒れる、と、天気予報でもいっていた。もしかしたら本当に、雪が降るかもしれない。
 雪が降っても、黒猫の男の子は、三角公園にきてくれるのだろうか。

 

 

 そして、クリスマスがきた。

 24日の天気予報で、今夜から明日にかけて、ところにより雪になるでしょう、といっていた。わたしは、黒猫の男の子のことを考えながらねむり、つぎの朝、窓の外の気配でめざめた。

 カーテンを開けると、窓の外では、白いものがはらはらと落ちていた。街はまだ薄暗く、空も灰色にくもっている。街の上にうっすらと半透明の膜がかぶさっていて、樹の枝のあいだや、車のボンネットの上が、ところどころ白く染まりはじめていた。

 わたしは部屋の時計を見た。まだ6時50分で、家族はみんな寝ている。家の中はしずかだった。

 わたしはいそいで着替え、コートを着て、マフラーを巻いて外にでた。早朝の街は静かで、どこかで雪の落ちる、さらさら、という音がきこえた。門をあけたところで大粒の雪が顔にあたって、傘を持っていったほうがいいのか、すこしなやんだが、そのまま駆けだした。

 本当に雪が降った。太陽は、厚い雲に覆われて見えない。

 わたしは三角公園にむけて走った。地面がぴちゃぴちゃと音をたて、靴のなかがすこししめった。雪は、だんだんはげしくなってくるようだった。

 三角公園のベンチに、男の子がすわっていた。

 黒猫の男の子は、わたしをみつけると、すっ、と立ちあがった。男の子の膝から、黒猫がひょい、ととんで、地面におりた。

 

  雪が。

 

 わたしは白い息をはきながらいった。雪が、降ったね。

 男の子はうなずいた。うん。だから……。

 

  魔法がとけるんだ。

 

 男の子はそういった。魔法がとけるから、ここで待っていたんだ。きみが、くるかもしれないと思って。

 わたしは気付いた。わたしたちのまわりに降る雪が、きらきらとかがやきはじめていた。

 男の子は、すこしだけさびしそうな顔になって、いった。

 

  さいごに、きみにさよならをいいたかった。魔法がとけてしまったら、もう話すことはできないから。

 

 わたしはききかえした。もう、会えないの。どうして。

 

  会うことはできるけど。

 

 男の子はいって、足元の黒猫を見た。黒猫も、男の子を見上げた。

 

   会うことはできるけど、話はできない。猫には人間のことばはわからないから。

 

 男の子はほほえんだ。それに、猫には猫の世界がある。きみに、人間の世界があるように。

 男の子のからだが、白い光につつまれていった。男の子は白い影になって、わたしに手をふった。光がつよくなって、男の子のからだの輪郭が、かたちを変えはじめた。

 

  そんな顔をしないで。ここはぼくのなわばりなんだ。いつでも会えるさ。

 

 白い影がちぢみはじめた。黒猫はそのとなりで、じっとすわっていた。まぶしさにたえきれなくなって、わたしは目をとじた。

 光がよわくなり、わたしが目をあけると、男の子はどこにもいなかった。かわりに、1匹の白猫がちょこんとすわって、わたしを見あげていた。

 白猫はとたとたと歩いてきて、わたしの脚に頭くっつけてきた。あたたかい感触をのこして首と背中をすりよせると、さいごにしっぽをちょい、とからめて、わたしの脚からはなれた。そして、すわって待っていた黒猫と寄りそいあい、ならんで歩きはじめた。

 はなれていく1匹の猫に、わたしはいった。

 

  さよなら。

 

 2匹はいっしょにふりかえり、にゃん、とみじかくこたえた。それから、ひょい、と植え込みを跳び越えて、公園の奥に消えた。
 わたしはそれを見送ると、ひとつくしゃみをして、三角公園を出た。

 わたしたちは帰る。猫は猫の世界に。人間は、人間の世界に。

 降り積もる雪が、街を白く染めていた。






5、6年前から毎年、クリスマスにクリスマスを題材にした短いものを書いています。
(話はその日に考えます。)
今回は、あんまりクリスマスとは関係ない話ですが……。
元ネタは「猫のキモチ」(菅野よう子作曲/Gabriela Robin作詞)という曲の歌詞です。
毎年、クリスマスに何か書きたくなりますが、それがなぜなのかは分かりません。
サンタクロース等、クリスマス関連のガジェットは短編やショートショートと相性がよく、
そのせいなのかもしれません。いえ、きっとそのせいです。
他にも何か理由があるかもしれませんが、そこのところはまあ、いいでしょう。

バトル・イン・お会計

2011年02月14日 00:11

それは、わずか40秒間の戦いだった。

 

午後6時の西友食料品売場は買い物をする客でごった返していた。肉・野菜・冷凍食品がずっしりと満載された買い物籠を提げた主婦のおばちゃん。話題の298円弁当の上に、それが毎日の愉しみなのだろう缶ビールをちょこんと載せた籠を持つおっちゃん。携帯電話で何やら喋りながら酒類コーナーを歩きまわる学生らしきお姉さん。総菜コーナーから漂う揚げ物の香りとスピーカーから流れる90年代のポップスが売場の空隙を埋め、店員さんの押す台車の音が喧騒を加速させる。レジには長蛇の列ができ、買い物籠を提げた客らが自分の会計はまだかまだかと、飢えた獣のような目で店員さんを睨んでいる。レジは戦場だった。平均重量5キロ超の買い物籠を利き腕に、時には両の腕に提げた客らの上腕二頭筋は列に並ぶ段階ですでに限界に達しており、その場の全員が早く籠をレジに置かせろと願い、自分の1つ前の客が会計をする番を心待ちにしていた。店員さんはそれに応えるべく、流れるような熟練の技で会計を済ませてゆく。だが大部分の人間が3000円を超す商品を籠に詰め込む夕食前の時間帯を、店員さんの技術だけで簡単に捌けるものではない。1番レジから6番レジの全てがフル稼働しているにも関わらず、レジ前に並ぶ殺気立った客の数は一向に減る気配がない。いかなる運命の悪戯かペットボトル1本を買いたいがためにその列に紛れ込んでしまった高校生が周囲の殺気に怖れをなし、場違いな自分を隠すように首をすぼめて縮こまっている。

俺はその列の中にいた。

俺の並んだ3番レジの列もやはり殺気立っていた。レジのおばちゃんの手さばきは全く無駄のない見事なものだったのだが、俺の3人ほど前に並んでいた女性がサインを要するクレジットカードで買い物をした上、それに続いたおじいちゃんが震える手で1枚ずつ硬貨を置く、という支払い方をしたため、前後の2番レジ4番レジに比して3番レジの流れは明らかに悪かった。流れが悪い原因を知ることのできるのは俺の位置までで、俺より後ろに並んだ客たちはなぜこの列だけ進むのが遅いのかが分からず、顔をしかめていらついていた。俺の2つ後ろに並んだおっさんは周囲に聞こえる音量で盛大な舌打ちをした。

俺の前では、70を越していると見られるおばあちゃんが戦っていた。支払いに手間取り、後ろの客に睨まれないための必死の戦いである。1378円の会計を釣り銭なく支払うべく小銭入れを開けていたおばあちゃんは自分の右側に伸びる列を一瞥して状況を理解したものの、札入れの中に1000円札が1枚しかなかったらしく、絶望の表情を浮かべていた。378円を小銭で支払うためには500円玉1枚を出すのが最も早いが、おばあちゃんの小銭入れには500円玉すらないようだ。焦りのため震える指でようやく100円玉4枚を探り出したおばあちゃんはお釣りを受け取ると、「すいません」と小声で呟きながら必死で籠を持ち上げ、逃げるようにレジを抜けた。

周囲はますます殺気立った。支払いに関するおばあちゃんの手際はそうよくはなかったが、いらつくようなものでもなかったはずだ。しかし、これまで理由も分からないまま流れの悪いレジで待たされた客には、100円玉を4枚捜しあてるまでの彼女の奮闘は目に入っていない。彼らの目には、彼女の会計は「遅すぎる」と映ったのだ。後ろのおっさんから「早くしろよ」と罵声が飛ばなかっただけでもましなのかもしれない。

俺の番が来た。おばあちゃんの「敗北」により、後ろの客が俺に対し、おばあちゃんをはるかに超えるスピードでの会計を要求してくることは明らかだった。さっきちらりと見たところ、露骨に顔をしかめて前を睨んでいたあのおっさんはすでに臨界寸前で、俺がこれからする会計で少しでも手間取ることになれば、爆発することは確実だった。

俺は財布の札入れを開き、中の5000円札に手を伸ばした。

俺の財布の中には5000円札が1枚と、いくらかの小銭がある。いつもは小銭で端数を揃えて釣り銭の量を減らしているのだが、今回それはできそうもない。釣り銭が少ない方がレジを抜けるまでの時間が短いだろう、というのは素人の考えで、レジにおいては、最も時間を食うのが商品のスキャン、そしてその次に時間を食うのが、客が小銭を出し、トレーに置く作業なのだ。スーパーのレジにいるおばちゃんは熟練の猛者揃いだ。こちらが小銭をとろとろと用意する時間より、おばちゃんが釣り銭を用意する時間の方が絶対に短い。レジのおばちゃんは小銭の計数のプロであり、プロの仕事はプロに任せるべきなのだ。

だが「会計をいかにスムーズに済ませるか」というこの戦いにおいて、俺は2つの不安要素を抱えていた。1つは俺の財布の構造。そしてもう1つは、俺が極めて不器用であることだった。

一般的な財布の例に漏れず、俺の財布も札入れと小銭入れは別になっている。札と小銭をそれぞれの場所に収めるためには、財布を1度構え直さなければならなかった。札を入れるため、札入れの開口部を上に向けたまま小銭入れを開ければ小銭をぶちまけることになるし、小銭を入れた後、小銭入れを閉めずに札入れを使おうとすればやはり小銭をぶちまけることになる。釣り銭に札と小銭が交ざっていた場合、小銭入れを開け閉めする、という動作をどうしてもしなくてはならないのだ。

だが、不器用な俺にはこの動作が困難だった。左手はすでに塞がっている。頼みの右手で釣り銭を受け取ってしまった場合、俺にはもう空いた手は残されていない。ところが、俺の財布は小銭入れのボタンが固く、釣り銭を持った手の、空いた指だけで開けることが困難な代物なのである。右手の指はすべて自由にした上で、小銭入れの覆いをつままなければ開かない。今回の会計において最も困難で、時間的なロスが生じやすいのがこの動作だった。

むろん、これがさして問題にならない場合もある。店員さんがセパレート式で釣り銭を渡してくれた場合である。

店員さんが客に釣り銭を渡す時、その渡し方には大まかに2つの方式があった。1つは、まず札だけを「お先に大きい方、2000円と」と言って渡し、次に小銭とレシートを「おあと191円とレシートのお返しになります」と渡す「セパレート式」。そしてもう1つは、店員さんが小銭を含めた釣り銭全額とレシートをひとまとめにしてしまい、「2191円とレシートのお返しです」と言って札の上に小銭を、さらにその上にレシートを積み上げて一度に渡す「ダイレクト式」である。

店員さんが採っているのがセパレート式で、そのことがあらかじめ分かっているのであれば、俺の不器用な右手でもスムーズに釣り銭を受け取ることができた。まず札入れを開けて待ち、札を渡されたらそこに収め、店員さんが小銭とレシートを用意している間に財布を構え直して小銭入れを開け、小銭とレシートを待ち受ければいい。

対して、ダイレクト式の場合は少々難しい。右手の上に置かれた釣り銭を……それも札の上に複数枚の小銭が積み上げられる、という極めて不安定な状態で置かれた釣り銭をうまく財布に収めるためには、あらかじめ小銭入れを開けて構え、右手で釣り銭を受け取った後、財布の上に積まれた小銭を小銭入れに流し込み(レシートはどさくさにまぎれて握り込むか、小銭入れに一緒に入れてしまう)、空いた指で小銭入れを閉じ、財布を構え直して札入れに札を収める、という高等技術が必要になる。焦ったり緊張したりしている場合、小銭を小銭入れに流し込む時にこぼす可能性があった。かといって、とりあえず小銭も札も一緒に札入れに入れてしまう、というやり方では財布が閉じられないし、釣り銭を受け取った右手で札を握り潰して、上に載った小銭ごと手の中に収める、というやり方も、どこかで小銭がこぼれる可能性が大いにある。いずれも、スムーズとは言いかねる方法だった。

もちろん、それだけならまだなんとかなる。俺はお買い物キャリア10年だ。熟練とまでは言わないが、不慣れなビギナーでもない。たとえ店員さんが採ったのがダイレクト式であっても、落ち着いて財布を構え、落ち着いて釣り銭を扱えば、ぎりぎりスムーズと言い得る速度でレジを抜ける自信があった。

だが、今の状況は。

148円が1点、158円が3点……」

店員のおばちゃんは美しいとすら言える正確な動作で商品をスキャンし、籠から籠に移している。それを見ながら俺は、自分のうかつさに舌打ちした。

このおばちゃんがセパレート式の慎重派か、ダイレクト式の野生派か。それを前もって確かめることができなかったのだ。俺は列で待つ間、すぐ前のおばあちゃんに対する釣り銭の渡し方を見てレジのおばちゃんのタイプを判断しようとしていた。おばあちゃんに対する釣り銭が1000円以内で済んだ場合、セパレート式かダイレクト式か、判断する材料がないにも関わらずだ。俺は油断していた。おばあちゃんの買い物籠の中身が1000円を超えていたからといって、おばあちゃんが5000円札や10000円札で支払うとどうして言えるのか。カードで支払う可能性もあるし、それどころかこの年代のおばあちゃんの中には、釣り銭なしできっちりと支払う丁寧な人がかなりの割合で混じっている。それなのに、「前のおばあちゃんを見ていればいい」と漫然と構えていた俺は、間抜け以外の何者でもなかった。キャリア10年が聞いて笑わせる。

そういうわけで、俺は苦境にあった。

セパレート式にしろダイレクト式にしろ、釣り銭をスムーズに受け取るための一連の動作は、相手があらかじめどちらの方式を採るかが分かっていることを前提としている。ダイレクト式だと思って小銭入れを開けていたところにセパレート式でこられたら、こちらは店員さんが札を数えている間に急いで財布を構え直し、小銭入れを開けなければならない。逆にセパレート式だと思って小銭入れを閉めていたところにダイレクト式でこられたら、釣り銭を差し出す店員さんを待たせたまま、財布を構え直して小銭入れを開けなければならない。どちらも、スムーズと言うには程遠い受け取り方だ。

俺は店員のおばちゃんを観察しながら考えた。このおばちゃんはセパレート式なのかダイレクト式なのかを、少なくとも商品のスキャンが済むまでに判断しなければ、準備が間に合わない。しかし、どちらを採っているのかは店員さんの顔で判断できるものではない。

だが、俺の研ぎ澄まされた五感は、背後の2番レジで会計をする店員さんの声を聞き分けていた。

「お返しがまず100020003000円と……」

セパレート式だ。この店舗はセパレート式を採用している。

だが、喜び勇んで札入れを構えようとした俺は、自分のうかつさにまた舌打ちすることになった。

確かにセパレート式かダイレクト式かは店舗単位で統一されていることが多い。というより、釣り銭が合わないと言って騒ぐ客が出ないよう、管理者からセパレート式を通達されているケースが多い。だが、このおばちゃんがその通達に律儀に従っているという保証はない。もしかしたらこの店舗ではどちらの方式を採用するかは自由なのかもしれないし、仮にセパレート式を採るよう通達がされていた場合でも、この混雑だ。時間短縮のため、おばちゃんが一時的にダイレクト式を採る可能性はある。

それでは判断ができない。俺は悩んだ。何か手はないのか。

おばちゃんは練達のピアニストを思わせる見事な動きで商品をスキャンしている。「198円が1点……」

それを聞いた瞬間、俺の脳内にかすかな希望の光がちらついた。支払いに小銭を混ぜて端数を合わせ、釣り銭を小銭が交ざらない額にするという手がある。

さっき言った通り、通常ならそれは素人考えの下策だ。だがそれは、店員さんが商品をスキャンし終え、総額が表示されたのを見てから小銭を捜す、というやり方を前提としている。店員さんがスキャンを終える前に俺が自力で総額を暗算し、先に小銭を用意しておいたら?

通常なら考えられないことだった。計算を間違えば一度出した小銭をまた収めなくてはならないことになり、それだけで致命的なロスとなる。だが俺は貧乏な上にケチであり、食料品の買い物ひとつにおいても総額をなんとなく計算する癖がついているのだ。籠に入れたものがいくらなのかはすべて記憶しているし、暗算も得意だ。この俺になら、できるかもしれない。

俺はおばちゃんに向けられたディスプレイを一瞥し、これまでスキャンされた商品の総額を確認した。そしてまだスキャンされていない商品の内訳を一瞬のうちに確かめると、暗算で総額をはじき出した。今日俺が買ったのはタマネギ148円とジャガイモ198円、マイタケ98円にゴマ油358円にホウレンソウ148円が半額で74円。今日1番の大物である豚肉肩ロースが753円でチンゲンサイが198円の半額で99円。そして牛乳158円が3点で合計2202円。税込で231210銭で10銭は切り捨てだから2312円、だ。

計算が合っているという確実な保証はどこにもなかった。だが俺には自信があった。ケチの計算力を舐めてはいけない。

俺は財布を構え直し、小銭入れを開けた。312円分の小銭があれば、樋口先生と一緒にそいつを差し出す。釣り銭は3000円ジャストになり、そうなればセパレート式もダイレクト式もない。俺の完全勝利だ。

だが、小銭入れの中身を見た俺は落胆した。100円玉は45枚、10円玉も23枚確認できた。だが1円玉のアルミニウムの輝きがどこにもない。310円まではいいが、残りの2円がない。

くそったれ。俺は声に出さずに毒づいた。1円玉を用意せずに戦場に出るなど、俺はどこまで間抜けなのだ。

だが、そんな俺にも微笑んでくれる女神はいたらしい。ここは西友なのだ。

俺は胸を張り、はっきりと言った。「あ、レジ袋結構です」

おばちゃんは手を止めずに答えた。「御協力ありがとうございます」

エコの勝利だった。西友でお買い物をする時、レジ袋が不要な旨を伝えれば2円割引になるのだ!

たかが2円、だが今の俺にはイスラエルの民に降りそそいだマナのごとき2円だった。2312円引く2円は2310円。1円玉がなくても払えるのだ。

俺は小銭入れを探った。指先に感じる小銭の感触が、俺の勝利の感触だった。10円玉が1枚、そして100円玉が1枚、2枚……いや、これは50円玉か。

一瞬、背筋に冷たいものが走った。100円玉は3枚必要。そしてニッケル・銅合金の銀色も4枚確認している。だが。

1枚目は100円玉だった。だが2枚目は50円玉で、3枚目も50円玉だった。俺は舌打ちしてそれらを戻そうとしたが、これ2枚でも100円なのだと気付いて思いとどまった。

だが、最後の1枚も50円玉だった。

そんな馬鹿な、と思った。自分の目が信じられなかった。4枚あるうちの3枚までもが50円玉だなどということは確率的にありえないことのはずだった。通常、50円玉は1度の会計で1枚しか手に入らない。それが100円玉の3倍も財布に入っているなどということが現実にあるのだろうか。

俺はうすく笑った。悪い冗談だとしか思えない。しかし現実に、俺の財布には250円と、10円玉3枚しかなかったのだ。

普通の奴ならここで絶望し、頭の中が真っ白になって立ち尽くすだろう。だが俺は違う。策が潰えたなら次善の策を、敗北が決定したなら被害を最小限に抑える準備をする。それができてこそ、お買い物のプロというものだ。

俺はすぐさま小銭入れを閉じ、5000円札を抜き出した。もう、釣り銭を減らす作戦はとれない。店員のおばちゃんがダイレクト式なのかセパレート式なのかも分からない。だがそれでもせめて、このおばちゃんがどちらである確率が高いかを判断してそれに応じた体勢を整えるべきだ。

俺はおばちゃんを観察した。動きは速く無駄がないが、手つきや発声を見る限りさして丁寧とはいえないおばちゃんだ。だが、そのことをもって野性的なダイレクト式の遣い手と判断するのは早計だ。顔もダイレクト式をやってきそうなイメージだが、顔は根拠にならない。

それなら、と俺は視点を変えた。おばちゃんではなく、レジスターのタイプから判断できないか。

俺が新型と呼んでいるタイプのレジスターは釣り銭計数機がついている。つまり、金額を打ち込んだだけで釣り銭を自動的に数えて出してくれるのだ。このタイプであった場合、ダイレクト式の確率が高くなる。本来、セパレート式を採る理由は釣り銭の数え間違いと、数え間違えている、という客からのクレームを防止することだ。レジスターが新型ならそのどちらも起こりにくいし、釣り銭は札も小銭もほぼ同時に出てくる。この場合、店員さんが札と小銭を重ねて取り、その上にレシートを置いて出すというダイレクト式は極めて自然な方式である。したがって、レジスターが新型の場合、ダイレクト式である確率が飛躍的に上がる。

一方、レジスターが釣り銭計数機のついていない旧型であった場合、店員さんは札と小銭の引き出しを自分で開け、適切な枚数を手で取り出さなくてはならない。数え間違いだというクレームも来やすいし、まず札を出して渡し、客がそれを確認している間に小銭を準備する、というセパレート式の方が時間のロスがない。したがってレジスターが旧型の場合、わずかだが、セパレート式の方が確率が高くなる。

この店舗のレジは旧型だった。俺は5000円札をつまみ出したまま財布の札入れを開け放ち、対セパレート式の体勢をとった。

だが次の瞬間、おばちゃんの背のむこう、隣の4番レジで小さな動きがあった。客が釣り銭を受け取り損ね、小銭を落としたのだ。そして俺は見た。4番レジの台の上を舞う、1枚の1000円札を。

 ……あの客は札と小銭を同時に受け取っている。むこうの4番レジはダイレクト式なのだ!

さっき聞いたところによれば、後ろの2番レジはセパレート式だった。どういうことだ。隣の4番レジのおばちゃんの独断だろうか。それとも後ろの2番レジの人が異端児なのか。

もはやどちらなのか判断ができなかった。こちらの構えが予定した方式と違った場合、そのロスは、後ろのおっさんを爆発させるに充分なものだ。それなら、どうする? 一か八か、勘で決めるか。

だが、俺はそうしなかった。勘で決める、というやり方は、俺のスタイルに合わない。どんな苦境にあっても最後まで最善を尽くすべきであるし、最後の最後を運に任せたくはない。俺が好むのは、勝っても負けてもそれが自分の実力によるものだった、と納得できる勝負だ。勘で決めてあとは神頼み、なんていうのは趣味じゃない。何より俺はリアリストで、神様なんて信じちゃいない。

俺は迷うことなく5000円札をトレーに置いた。そして小銭入れのボタンを外しつつ覆いを指で押さえ、財布は斜めに構える、という中間の体勢をとった。相手の方式を知っていた場合よりは時間がかかるが、相手がどちらの方式で来てもある程度早い対応がとれるという構えだ。

もう、おばちゃんがどちらの方式で来るかは予想しない。おばちゃんの初動を見極めて動き、おばちゃんより速い動きで財布を構え直して釣り銭を受け取り、時間のロスを最小限にする。俺の選択はこれだった。

レジスターが旧型の場合、セパレート式とダイレクト式では、店員さんの初動に大きな差があるはずだ。セパレート式の場合、店員さんはまず札を数えながら取り出し、それから体をこちらに向けて「まず大きい方が」と発音する。対して、ダイレクト式の場合はそんなことはしない。まず札を数えながら出す、というところまでは同じだが、その後、体をこちらに向けたりはせず、小銭の引き出しに手を伸ばす。

俺はその瞬間におばちゃんの動きを見極め、セパレート式なら小銭入れのボタンをとめ、札入れを上に向けて開口させる。ダイレクト式なら小銭入れを開放し、右手を差し出す。おばちゃんが釣り銭を差し出すよりも遅ければ敗北。早ければ勝利。スピードの勝負だ。

「お会計が2312円、2円引かせていただいて2310円になります」

やはり俺の計算は合っていた。だが、そんなことは今となってはどうでもいいことだった。俺は両手の緊張を解かないまま、おばちゃんの「5000円からでよろしいですか」という問いに頷いた。

おばちゃんが5000円札を取り、金額をレジスターに入力する。釣り銭の額が表示される。2690円。

さあ、来い。どちらで来る? セパレート式か、ダイレクト式か。

おばちゃんが5000円札をしまう。俺は、おばちゃんの右手の動きに意識を集中していた。引き出しから釣り銭を出すのは右手だからだ。おばちゃんの右手が小銭の引き出しにむかって動いたらダイレクト式、動かなかったらセパレート式だ。どちらで来ても、おばちゃんが釣り銭を差し出す前に、財布を構え直して右手を差し出してやる。コンマ1秒たりともロスをする気はない。

……さあ、どっちが早いか試してみようぜ。

俺は身構えたまま呼吸を止めた。周囲の喧騒はどこかに遠ざかり、店内は無人の荒野に変わった。砂塵が撒き上がり、枯れ枝が舞う。俺とおばちゃんの殺気を怖れた小さなネズミが短く鳴き声をあげ、巣穴にもぐった。その音を最後に、俺とおばちゃんを残して世界は無音になる。

瞬間、おばちゃんが動いた。釣り銭の引き出しを開け、電光の速さで2枚の1000円札を出し、左手に重ねる。

ダイレクト式か?

だが俺は動かなかった。ここまでの動作ではまだ判断できないからだ。勝負の世界では、冷静さを失った奴は真っ先に死ぬ。

するとおばちゃんは手に重ねた2枚の1000円札を折り、1枚ずつ手の中でめくった。

数えた。セパレート式か?

だが俺はまだ動かなかった。ダイレクト式であっても一旦手の中で札を数えることはありうる。

しかし、おばちゃんの右手は小銭の引き出しに伸びなかった。

……セパレート式だ!

俺は瞬時に判断し、右手の指を動かして小銭入れのボタンをとめにかかった。だがボタンは予想通りの固さで、なかなかとまってくれない。その隙を逃すほどおばちゃんは甘くなかった。おばちゃんは素早く体をこちらに向けると、こちらに札をよく見せて「大きい方が2000円と」と発音した。だが、その声が俺の耳に届くのとほぼ同時に俺は小銭入れのボタンをつけていた。おばちゃんが1000円札2枚を差し出すのと、俺が右手を差し出すのは同時だった。間に合った。時間にロスはない。ここまでは合格だ。

と思ったら、おばちゃんは一旦俺に見せた1000円札をするりと引っ込め、レジスターに置いた。それからその札をそのままにし、小銭を取り出し始めた。

ちょっと待て。何だそれは。

ノータイムで1000円札を受け取ろうとして勢いよく手を出していた俺は、体のバランスを崩してつんのめった。おばちゃんが何食わぬ顔で「690円のお返しです」と言い、さっきの札の上に小銭とレシートを載せて差し出した時には、慌てて小銭入れを開けようとした俺は中の小銭をぶちまけていた。

俺がぶちまけた小銭を集めていると、後ろのおっさんが爆発した。「何やってんだよ! 早くしろよ!」

 会計がちょっと遅いぐらいでいらいらすんなよ、と言い返す度胸は、俺にはなかった。

 

俺は敗北感に打ちひしがれ、周囲の客から憐れみの視線をもらい、そしてレジ袋をもらわなかったため鞄に直に食料品を入れて家路につくことになった。レジ袋は要らない、と豪語して2円引いてもらったくせにレジ脇に巻いてある無料の袋をずるずる引っぱって取りまくる、といった図々しい行為をする度胸も、俺にはなかった。いいかげんマイバッグを買わなきゃな、と思いながら店を出た。

風が、乾いていた。

サンタクロースの正体は?

2010年12月24日 22:15

「別に、彼女ができたこと自体はどうでもいいんだよ」
 すでに一度言ったことだが、俺は繰り返した。「でも、それにしても性格変わりすぎだろ。平気で嘘つくようになったよ」
 俺はそう言ったが、兄貴はとりあってくれない。今日のうちに今年のレポートを片付けておきたいとかで、パソコンに向かってがちゃがちゃとキーボードを叩いている。「嘘ってほどのもんじゃないだろ。彼女に話、合わせてるんだよ」
「いや、だって完璧に嘘だよ。気持ち悪いんだよ。『俺、10歳までサンタクロース信じてた』とか言ってんだよ?」
「それ本当じゃないの? 河野君、そういうとこあるじゃん」
「嘘なんだって。少なくともそれは絶対嘘。だってあいつ、幼稚園の時自分で言ってたもん」
「なんて?」
 兄貴がようやく振り向いたので、俺は身を乗り出した。「俺、幼稚園の年長までは『サンタはいる』派だった」
 兄貴は笑った。「俺はもっと後までだな」
「俺の場合は、早い段階で現実見せられたんだよ。河野に」
 あの時のことは今でも覚えている。それ単品では子供だから仕方ない、で済む話だが、その当人が、彼女の前だからといって過去の発言をなかったことにして大嘘をついていると思うと、やたらと腹が立つ。
「俺がサンタクロースはどこかにいるつったら、河野がすげえ自慢げに『どっかにいるんじゃないよ。うちにいるんだよ。サンタってお父さんがやってるんだもん』って言いやがんの。何でも知ってるみたいな顔して」
「あったな、そういうこと」兄貴はまた笑った。「お前たしかあの時、泣きながら帰ってきたよな」
「その時はガキだったからな」俺は読んでいた漫画を脇に置き、腕を組んだ。「俺のことはどうでもいいんだよ。大事なのは、河野が幼稚園の頃、得意顔でいたいけな子供の夢を壊しておいてだな、今になって、そんなことなかったかのように、彼女の前では『10歳までサンタ信じてたよ』」
 言いながら、自分でもなんだか、どうでもいいことを力説しているような気がしてきた。俺はそこで黙ったが、昔のことを思い出したらまた腹が立ってきた。
 だが、兄貴は椅子の上からこちらを見下ろして、変なことを言った。
「俺の考えじゃ、河野君は嘘を言ったつもりはないんだと思うけど?」
「はあ? 嘘じゃん」
「ん」兄貴は何か言おうとしたようだったが、結局、くるりと椅子を回転させて画面の方を向いてしまった。「……俺もそうだったしな」
「は?」兄貴は時々、わけのわからないことを言う。「何?」
 ……兄貴は一体何を言っているのだろう?
 俺はいぶかったが、兄貴はそれ以上説明してはくれなかった。
「友達なんだからさ、もう少し善意に解釈してやったら?」兄貴はまたキーボードを叩き始めた。「だいたい、そんなんで喧嘩したのかよお前。みっともねえな」
「それだけが問題なんじゃねえよ。なんていうか、それに象徴されるあいつのいい加減さ全体だよ」
 ……とは言ったものの、確かにみっともない。
 友達に彼女ができたら、素直に祝福してやるのが男というものだ。それで多少つきあいが悪くなったとしても、笑って許してやるのが大人というものだ。そんなことは分かっている。腹を立てるのはみっともない。
 しかもその不満を、レポートを書いている兄貴の部屋にやってきて一方的にこぼすのもかなりみっともない。
「……でも、あの嘘はないだろ」
 俺は小声で呟いただけだったのだが、兄貴は言った。「だから、嘘ついてないかもしれないだろ」
「は? 意味が」
 わかんねえよ、と言おうとしたが、やめた。兄貴がよく分からないことを言う時は、だいたい何か考えがあるのだ。
 ……しかし。
 俺は腕を組んだ。河野は嘘をついているのは間違いないはずだ。だが、兄貴はそうではないかもしれない、と言う。どういうことだろう。
「……俺の話、ちゃんと聞いてたのか?」
「一応」マウスをクリックしながら、兄貴の背中が答える。「なんなら、お前が言ったそのまんま、繰り返してやろうか」
「いいよ」
 俺はそう言ったが、ますます分からなくなった。兄貴は、俺の言葉を聞き間違えたのではないらしい。
「……兄貴。言っとくけど、俺の聞き間違いとかじゃないぞ」
「知ってるよ」
「じゃあ何だよ。なぞなぞみたいな話?」
「別に。事実を言っただけだよ」
 兄貴はこちらに背を向けたままそう言い、ほい、と言ってエンターキーを叩いた。
 俺は唸った。兄貴がああ言うからには、「嘘とは何か」みたいな禅問答ではなく、きちんとした解答があるはずなのである。
「兄貴、河野から後で何か聞いてた?」
「聞いてないよ。お前の口から聞いたことだけ」
「じゃ、嘘だろ。……言い間違いとかか?」
「いや、別に」
 兄貴は画面を睨んだままだ。
 確かに、兄貴はさっき、「俺もそうだった」と言っていた。だとすれば、河野だけの特殊な事情ではないのだ。
 どういうことなのだろう。サンタクロースを「信じる派」と「信じない派」の他にまだ何か、中間の選択肢があるということだろうか。だが、それは理屈からいってありえないはずだ。どちらかのはずなのだ。
 兄貴はまた、くるりと椅子を回して俺を見下ろした。「河野君が嘘つきだっていう前提で考えるから分からないんだよ。河野君が本当のことを言っていたとしたら?」
「だって本当のこと言ってたら、矛盾するじゃん。それともあれか? 幼稚園から10歳までの間に1回、記憶喪失になったとか?」
「それ面白いな。じゃ、俺も記憶喪失?」
 ……もちろん、そんなことはない。
 俺は頭を抱えたが、どんな姿勢をとろうが、分からないものは分からない。
「降参。教えろよ」
 それを聞くと、兄貴は「なんだよ早えな」と苦笑した。
「いいじゃん。教えてよ」
「別に、たいしたことじゃないよ」兄貴はこちらを向いたまま、パソコンからUSBメモリを抜いた。レポートは終わったらしい。「河野君が言ったのは、『サンタクロースはいない』じゃないだろ。「『サンタクロースはお父さんがやってる』だよ」
「同じだろ」
「違うよ。河野君の考えは、『サンタクロースはいる』そして『サンタクロースはお父さんだ』」
 言っていることが分からない。
「……兄貴、ここで言っているサンタクロースっていうのは、そんな観念的なのじゃなくて、もっとこう」
「だから、そうだってば」兄貴は手で、動物をなだめるような仕草をした。「つまり、こうだよ。『世界中にプレゼントを配るサンタクロースは実在する』『そして、それはうちのお父さんである』」
「……は?」
「俺はけっこう大きくなるまでこう思ってたよ。『うちのお父さんは普段は冴えないおっさんだけど、クリスマスイヴにはサンタクロースに変身して、世界中の子供にプレゼントを配って回ってるんだ』ってね」
 俺は沈黙した。
「……兄貴、それは、あまりに」
 どこのヒーローだそれは。俺は笑った。「親父が変身するのかよ」
 想像してみると、けっこう笑えた。確かに、河野ならそんな馬鹿なことを考えるかもしれない、と思った。
「さて、レポートも終わったし」兄貴は大きく伸びをして椅子から立ち上がり、棚からゲーム機を出した。「親父とケーキが来るまでひと勝負してようぜ。勝った方がケーキの上のサンタな」
「いらねえよ」俺は笑いながらコントローラーをとった。
 と、廊下のむこうで玄関のドアが開く音がした。廊下を足音が移動するのも聞こえた。
「あ、もう来たか」兄貴が振り返って立ち上がる。俺も続いた。
 が、玄関には親父の靴はなかった。俺と兄貴は顔を見合わせた。
「いま、親父帰ってきたよね?」
「うん」兄貴も首をかしげた。「なんか用事で、またすぐ出てったのかな」

 暗い裏通りの一角。階段を下りていくと、地下に、薄汚れたバーの入口があった。もともと通行人が覗かないような陰気な場所である上、ドアには、夜の8時であるにも関わらず「CLOSED」の札が下がっている。
 そのドアのむこうに連れ込まれた時は、少女はもう怯えきって、自分で歩くこともできていなかった。しかし両側から彼女を抱えた男2人は慣れたもので、小柄な少女の体を軽々と引きずって店のドアを開ける。
 店の中には、荒廃した空気をまとった男たちが10人以上、たむろしていた。店員の姿はなく、荒れ放題の店内。その中央にビリヤード台が置かれている。
 少女を抱えた男たちは、周囲の悪漢たちの下品な視線と歓声に笑顔で答えつつ、彼女をビリヤード台まで引きずっていった。フェルトがはがれ、キューもボールも置いていないことから、その台の用途は明らかだ。台の上で押さえつけられた少女は泣くこともできず、ただ震えていた。悪漢たちの熱気が一段と高まる。
 しかしその瞬間、入口の方で凄まじい破壊音がし、店内が激しく揺れた。
 ドアの破片が階段から落ちてくる。とっさに頭を抱え、数秒してようやく顔を上げた悪漢たちは、店内に1人の男が出現しているのを見た。スーツの上によれよれになったトレンチコートを羽織った、会社帰りと見える中年男だ。小太りのその男はいつの間にか少女を抱きかかえていて、腕の中の少女に優しく微笑んだ。「お嬢さん、もう大丈夫ですよ」
 中年男は少女を床に下ろすと、指先に下げていた包みを渡した。「これ息子たちに買ったケーキなんだけど、ちょっと持っててくれるかな」
 店内の悪漢たちは最初こそ驚いていたが、相手が小太りの男1人だと知るとようやく身構えた。……どこから現れたのかよく分からなかったが、会社帰りのただのおっさんだ。いいところを邪魔しやがって。ぶっ殺してやる。悪漢たちは殺気立った。
 しかし、その男は腰を落とし、空手のような構えをとった。左手を腰だめにして右手を天に突き上げ、手首を捻ってゆっくりと体の正面に下ろす。何をやっているのだ、と悪漢たちが呆気にとられる中、男は叫んだ。
「変身!」
 男が発光し、悪漢たちは思わず目を閉じた。しかし、薄目を開けて光をこらえていた少女は見た。光の中で男のコートが変形し、赤い服と大きな袋が出現するのを。
 光がやみ、悪漢たちが目を開ける頃には、男は変身を終えていた。赤い上下に帽子。肩に担いだ大きな白い袋。そして、背後にいつの間にか出現している大型のソリと2頭のトナカイ。
 男は言った。「……私の名はサンタクロース。悪党どもに、正義の鉄槌をプレゼントしにきた。覚悟しろ!」
 左右のトナカイが自分で手綱を外して立ち上がり、左のトナカイは刀を抜き、右のトナカイは拳を固め、悪漢たちに踊りかかった。
 サンタクロースも、かついだ袋を縦横無尽に振り回して、悪漢たちを次々となぎ倒していった。



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